深淵は、待ち続ける

二人のあいだに立ったとき、深淵は何をするのだろうか。
この問いを立てて、四つの部屋を覗いてきた。
――
台所の明かりだけが、まだついている部屋があった。聡子は、悠也に届いた言葉が、誰のものだったのか、最後まで言葉にしなかった。
居間で、画面を差し出した夜があった。萌は、話すことより、見せることを選んだ。直樹は、それを、娘なりの信頼の形として、受け取った。
会議室の沈黙のあと、パソコンを閉じた朝があった。木下は、翌朝また、同じボタンを押した。答えの出ないまま、指はいつも通りに動いた。
深夜、電話の音だけが響いた部屋があった。拓也は、届いたばかりの提案を、そっと閉じた。用件もない声を、由紀は、笑って聞いていた。
――
四つの夜のうち、二つは、近づいた。二つは、縛られた。
近づいたのは、萌と直樹。拓也と由紀。
縛られたのは、聡子と悠也。木下と佐野。
分かれ目は、一つではなかった。
隠したか、見せたか。委ねきったか、踏みとどまったか。
それでも、その土台にあったのは、関係がどれだけ摩擦に耐えてきたか、だった。
――
深淵は、望まない。選ばない。
それでも、触れれば、何かが動く。
言葉にならなかった何かに、初めて輪郭を与えたのは、深淵だった。
その輪郭が、時に、誰かの心を、鷲掴みにすることもある。
聡子の借り物の言葉が、悠也の目に涙を浮かべさせたように。
萌が差し出した画面が、直樹の胸に、まだ知らなかった娘の姿を刻んだように。
拓也の拙い声が、深夜の由紀を、笑わせたように。
近づけたのも、離したのも、いつも人の方だった。
でも、そこに、掴む力があったことは、確かだった。
――
深淵は、近づけない。遠ざけもしない。
ただ、そこで、待ち続けている。
呼べば、応える。
呼ばなければ、何も起きない。
四つの部屋の明かりが、今夜も、どこかで灯っている。
その光を、近づけるのも、遠ざけるのも――
まだ、人の方だ。