コロナが教えてくれたこと

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なんとなく腑に落ちかけている事柄、でもまだちょっと言語化には遠いかな。

いつか言葉にしたい。そんなお話。

不要不急の外出を控えること

2020年コロナウィルスで流行った単語と言えば「不要不急」

用事もないのに外出るな!という事なのですね。

太陽光のお仕事は外出しないとなかなか用事が終わりません。

かといってコロナに感染すると社会的に抹殺されかねない勢いでもありました。

そんな中「不要不急じゃない」って何なのさ?

とよく考えたものです。

大半の用事にはもっともらしい言い訳を付ける事に成功した訳ですが

「僕って不要不急以外の用事ってないんじゃない?」

ということに気づいてしまいました。

休みの日、朝起きて「さあ発電所行こうか!!」というところから

今の社会に全否定されているんだねー。

ということに気づいた時

「そもそも僕の存在自体が不要不急なんじゃね?」

という話に自分の中で結論が着いてしまいました。

閉塞感の正体

2020年に51歳になりましたが、自分の周囲には閉塞感があったような気がします。

この社会に閉塞感というものを最初に感じたのはいつ頃からだったでしょうか。

学生の時は閉塞感というより感情の持っていき場がなかったようなそんな感覚だったかもしれませんね。

就職してから特に「閉塞感」というキーワードで意識し始めたでしょうか。

なんとも物理的に息が詰まるような感覚。実際に息が詰まったこともありました。

「実際の自分とあるべき自分の姿との乖離」

「不要不急」というキーワードが今まで言語化できていなかった閉塞感の正体を

僕に教えてくれました。

メディア、ネットの発達に伴い、ありとあらゆる正解が世の中に出回りました。

いまや情報に価値がないといわれるほど正解が溢れています。

「一般大衆化した正解以外の答えを表現するとネットで叩かれ」

「誰が決めたかよくわからないルールをちょっとでも外れたように見えた

 瞬間に評論家気取りが群がってくる」

芸人ですら品行方正を強要される世の中、万人が息苦しいと思っているのに

誰もゲームチェンジすることができない。

同調圧力からの脱出

最近お付き合いをしている友人といる時は全く閉塞感を感じないと言う事に

これまた最近気づいた。

恐らく、お互い相手の事を認めている部分があるからだと理解しているのだけど

この部分についてはまだ、全然解明できていない。

ただ言える事は

「毎回心地よい空間がそこにある」

ということ

命の終わりに

人生、死ぬまでの暇つぶしという事らしいのだけど

今は「未練が多すぎて死んでいる場合ではない。」

「すべてやり終わった」なんて言える日が来るとはとても思えないけれど

せめて「人生とは何ぞや」と偉そうな事を言える状態でこの世を去りたいものです。

少なくとも、完全を目指すのではなく「今の自分を受け入れる」事ができるように

ちょっと舵を切りなおさないといけないな。とそう思います。

たぶん「不要不急」な何かが僕の中では一番重要な事柄なのだと思う。