深淵は 雪崩れる 知性の深淵を覗く会 — 番外編

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知性の深淵を覗く会 — 番外編

深淵は
雪崩れる

同じ問いを投げた、見知らぬ大勢についての短編

坂上は、五年間勝てなかった。

証券口座の含み損は、見なかったことにして三年が経つ。そんな坂上が、ある晩たまたま流れてきた動画に釘付けになった。無名の低位株が、次々と数日で二倍、三倍になっていく。動画の主は、その根拠をすべてAIとの対話で説明していた。

AI ›

この銘柄は出来高が急増しており、直近の板の厚みから見て、短期的な資金流入が続く可能性があります。

坂上は動画の話し方、AIへの聞き方、プロンプトの型を、そのまま真似た。哲学的なフックはいらなかった。必要なのは、動画で使われていたのと同じ言い回し、同じ前置き、同じ問いの順番だった。

最初は、小さな勝ちだった。三万円の含み益。五年ぶりに見る、緑色の数字だった。坂上はその夜、久しぶりに眠れた。

次の月、少し大きな勝ちが来た。十五万円。坂上は、自分の判断が当たったことを、誰かに伝えたくなった。投資用に作っていた匿名アカウントに、含み益のスクリーンショットを貼った。

@kabu_beginner22 すごいです、どうやって銘柄選んでるんですか?
@low_price_hunter この人当たってる、フォローした
@sakaue_trade(坂上のアカウント) AIとの対話がすべてです、根拠は全部聞けます

返信が来るたびに、坂上の中で何かが満たされていった。含み益の数字よりも、見知らぬ誰かに「すごい」と言われることの方が、五年間の惨めさを埋めてくれる気がした。

三ヶ月後には、フォロワーが千人を超えていた。坂上は毎晩、その日の含み益と、AIとのやり取りのスクリーンショットを投稿するようになっていた。負けた日は投稿しなかった。それでも、勝った日の投稿だけを見れば、坂上は「読みが当たり続ける男」だった。

半年後、坂上の口座には二千万を超える含み益があった。フォロワーは二万人を超え、坂上はもう、自分がかつて見ていたあの動画の主よりも、よほど多くの人間に見られる存在になっていた。彼はもう、五年前の坂上ではなかった。

その日、坂上は「大波」を感じていた。長年の勘が、そう告げていた。動画で紹介されていたのと同じ銘柄に、信用取引で全力を投じた。

三日で株価は一・八倍になった。坂上は含み益を眺めながら、これまでで一番大きな高揚を味わっていた。興奮のまま、いつものように含み益のスクリーンショットを投稿した。

「含み益ヤバイことになってる。まあ、こっからどうなるかは分からんけど」

いつもの調子だった。深く考えて書いた言葉ではない。ただ、興奮のまま指が動いただけだった。だが、コメント欄はすぐに埋まった。

@kabu_beginner22 坂上さんでも「分からん」って言うのは珍しい、念のためAIに聞いてみます
@low_price_hunter 同じこと思ってた、利確の判断AIに相談中
@sub_trader_99 坂上さんがそう言うなら一旦様子見かな
@kabu_beginner22 皆同じタイミングで同じこと聞いてそう(笑)

坂上のフォロワーたちは、それぞれ別々に、AIにこの局面での判断を尋ねた。

AI ›

急騰後のこの局面では、利益確定売りが出やすいタイミングです。ポジションの一部、あるいは全部を利確し、リスクを圧縮することも選択肢として検討に値します。

フォロワーたちは、次々に売り始めた。坂上自身は、その動きに気づいていなかった。彼はAIに聞くまでもないと思っていた。自分の勘は、いつもAIより先に「波」を捉えてきた——その自負が、指を止めていた。

MARKET ›

13:41 ▽ 大商い、売り優勢に転換
13:52 ▽▽ 出来高急増、下落幅拡大
14:03 ▽▽▽ ストップ安、値付かず
14:22 追証発生アラート多数、SNSでトレンド入り

坂上の証券口座に、追証の通知が届いたのは、その日の夕方だった。翌朝、彼が持っていたポジションは、証券会社によって強制的に決済されていた。二千万の含み益は、消えていた。それだけでなく、五年分の生活防衛資金までもが、消えていた。

数日後、坂上は放心状態のまま、自分のアカウントのリプライ欄をもう一度開いた。

そこには、坂上と同じ言葉で、同じタイミングで、しかし坂上とは違う結末を迎えた人間が、何百人も並んでいた。

@kabu_beginner22 坂上さんの「まあ分からんけど」って投稿見て、念のためAIに聞いて利確しといて正解でした
@low_price_hunter 同じくです、坂上さんが弱気なこと言うの珍しかったので
@sub_trader_99 坂上さん本人は大丈夫なんでしょうか、投稿止まってますが…

坂上は、自分が何を投稿したかを、もう一度読み返した。深い意味などなかった。ただ興奮したまま、思ったことをそのまま書いただけだった。だが、二万人のフォロワーにとって、それは「坂上さんが珍しく弱気になった」という、聞き逃せない合図になっていた。

フォロワーたちは、坂上と同じ言葉で、AIに同じ問いを投げ、ほとんど同じ答えを受け取り、ほとんど同じタイミングで、売り抜けていた。坂上だけが、その波に気づかず、ひとり取り残されるように、ホールドし続けていた。

あの動画を真似ることから始まった自分の物語が、巡り巡って、自分自身の意味のないひとことで、大勢を動かし、そして自分だけを置き去りにして終わった。

坂上は、自分が失った金額よりも、あの投稿を書いた瞬間、自分にはフォロワーを動かす力があるという自覚が、まるでなかったという事実の方が、ずっと恐ろしいと思った。

この物語の裏側

なぜ大勢が同じ答えに収束するのか

坂上のフォロワーたちは、それぞれ別々に、自分だけの判断でAIに相談したつもりだった。しかし全員が同じ投稿をきっかけに、同じ言い回し、同じ問いの型でAIに尋ねれば、同じモデルは同じような文脈の重みづけで答えを返す。個別に相談しているという感覚と、実際には同じ入力に対して同じ出力が返っているという実態は、まったく別の話だ。人数が増えるほど、この収束は目立たなくなる。全員が「自分だけがこの根拠に気づいた」と感じながら、実際には同じ部屋の扉を、同じ鍵で開けていた。

なぜ坂上自身は気づけなかったのか

ここが、この話の一番怖いところだ。坂上は、自分がかつて模倣した動画の主と、まったく同じ構造の中心に、いつのまにか自分自身が立っていたことに気づかなかった。フォロワーを持つということは、自分の何気ない一言が、大勢にとっての「シグナル」に変換されてしまう立場に立つということだ。しかし本人には、その変換が起きている実感がない。坂上にとってその投稿は、ただの独り言だった。フォロワーにとっては、「いつも当たる坂上さんが、珍しく弱気になった」という、聞き逃せない合図だった。

さらに皮肉なのは、坂上自身は今回、AIに確認すらしていないことだ。彼はAIより自分の勘を信じ、フォロワーはAIと坂上の一言の両方を信じた。結果として、彼にAIというツールを使うことを教えたはずの物語が、彼だけがそのツールを手放した瞬間に、彼だけを置き去りにして終わった。

この構造にどう向き合うか

先に断っておくと、これも万能な防止策はない。群衆の一部でいる限り、自分がどこまで群衆と同じ判断をしているかを、自分自身で完全に把握することはできない。そして、発信する側に回った瞬間、自分の何気ない一言が持つ影響力にも、本人はほとんど気づけない。

自分の発言が「シグナル」として読まれる立場かどうかを自覚する——フォロワーや読者を持つということは、独り言のつもりの一言が、もう独り言ではなくなるということだ。発信する側になるほど、この自覚は失われやすい。

同じタイミングで同じ行動を取る人数を警戒する——特に、レバレッジをかけた取引では、大勢が同じタイミングで同じ方向に動くこと自体が、価格変動を増幅させる燃料になる。坂上を飲み込んだ暴落も、追証という仕組みが、最初の下落を自動的に増幅させたことで加速した。

自分だけがツールを手放す瞬間を疑う——坂上がAIに確認することをやめたのは、まさに「自分は分かっている」という自負が一番強くなった瞬間だった。皮肉にも、それは一番確認が必要だった局面でもある。

坂上が最後に感じた恐怖は、損失の大きさではなかった。自分が大勢を動かす発信源になっていたという自覚が、まるでなかったという事実の方が、ずっと彼を捉えて離さなかった。

知性の深淵を覗く会