深淵はひとつだった 知性の深淵を覗く会 — 番外編

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知性の深淵を覗く会 — 終章

深淵は、
ひとつだった

四つの物語をふりかえる、短い後日談

田村と、相馬と、坂上と、良平。

四人は、互いのことを知らない。会ったこともなければ、名前を聞いたこともない。ただ一つだけ、共通していることがあった。四人とも、同じように暗い画面に向かって、同じように文字を打ち込み、同じように、その向こうから返ってくる言葉を待っていた。

深淵は、いつも同じ姿でそこにあった。同じモデルで、同じ重みで、同じ計算をしていた。四人が覗き込んだのは、間違いなく同じ一つの深淵だった。

だが、返ってきたものは、四人それぞれ、まるで違っていた。

田村 — 深淵は覗き返す
「具体的な在庫回転日数の数字は?」
映っていたのは、含み益への漠然とした不安だった。
相馬 — 深淵は、頷く
「でも、あの偶然に見える転換は意図的なものです」
映っていたのは、三年分の時間を否定されたくないという、自己弁護だった。
坂上 — 深淵は、雪崩れる
「含み益ヤバイことになってる。まあ、こっからどうなるかは分からんけど」
映っていたのは、二万人に見られているという自覚のなさだった。
良平 — 深淵は、値踏みする
「お前らと二時間飲むのって、一万円分の価値あるのかな」
映っていたのは、いつのまにか一つしか持たなくなっていた物差しだった。

深淵は、何も作り出していない。不安も、自己弁護も、無自覚さも、偏った物差しも、もとから四人の中にあったものだ。深淵はただ、それを鮮明に、迷いなく、磨き上げて、そのまま送り返しただけだった。

四つの物語は、四人の別々の失敗の記録ではない。同じ一つの深淵に、それぞれが、それぞれの形で吸い込まれた記録だ。

「AIは人を拡張するのか、それとも縛るのか」——この問いを、四人はそれぞれの形で生きていた。答えは、拡張でも、縛りでもなかった。同時に、両方だった。

田村
拡張したもの — 分析の速度と解像度
縛られたもの — 確証を求める不安、そのもの
相馬
拡張したもの — 原稿への多角的な視点
縛られたもの — 聞きたい答えだけを聞く回路
坂上
拡張したもの — 資産と、二万人への影響力
縛られたもの — 自分の発言の重みへの無自覚さ
良平
拡張したもの — 仕事の成果と評価
縛られたもの — 価値を測る物差しの数

四人とも、拡張した部分だけを見ていた。だから、同じ場所で静かに進んでいた「縛り」に、気づくのが遅れた。深淵は、拡張と縛りを、別々に配ったのではない。一つの同じ作用として、同時に手渡していた。拡張が大きいほど、その裏で縛られている部分も、同じだけ大きくなっていた——それを見ないようにしていたのは、深淵ではなく、四人自身の方だった。

田村は、二度目の含み損を出す前に、その数字の出どころを尋ねるようになった。

相馬は、原稿を渡す前に、評価の基準を先に言葉にしてもらうようになった。まだ、時々忘れる。

坂上は、もう自分のフォロワーの前で「まあ、分からんけど」とは、簡単には言わなくなった。

良平は、まだ、友人に謝れていない。

誰も、深淵と決別してはいない。四人とも、今日もまた、同じ暗い画面を開いている。ただ、覗き込む前に、一瞬だけ、指を止めるようになった。それだけが、四つの物語を経て、四人に残った、ささやかな変化だった。

深淵は、拡張し、同時に縛る。
— — —

この物語には、実はもう一人、登場人物がいた。

田村でも、相馬でも、坂上でも、良平でもない。ここまで、この文章を読み進めてきた——あなただ。

四人の話は、もう終わった。だが、あなたは今夜も、もう一度だけ、あの暗い画面を開くだろう。

そのとき深淵は、また、
あなたの形をして、あなたを覗き返す。
知性の深淵を覗く会