深淵は、繕う

木下が佐野の変化に気づいたのは、半年ほど前からだった。
入社三年目の佐野が出してくる企画書が、急に良くなった。以前は、粗削りだが勢いのある提案をしてくる方だった。それが、ここ最近は、構成も、想定される反論への備えも、隙がない。木下は、単純に感心していた。
「佐野、成長したな」
課の会議で、木下は何度もそう言った。佐野は、少し照れたように頭を下げるだけだった。
木下は、次の大きな案件――取引先の年間契約更新の交渉――を、佐野に任せることにした。
――
交渉の本番、取引先の担当者から、想定外の質問が飛んだ。
「この提案、御社独自の強みはどこですか。他社にはできないという根拠を、もう少し具体的に」
佐野は、言葉に詰まった。
企画書には、確かにそれらしい言葉が並んでいた。「独自性」「差別化要因」。けれど、佐野自身、それが実際に何を指しているのか、うまく言えなかった。企画書を作るとき、その部分は特に、AIの提案をそのまま使っていた。良さそうな言葉だったから、疑わずに採用した。
その場は、木下がなんとか取り繕って収めた。取引先を送り出したあと、会議室に、気まずい沈黙が残った。
「佐野、あの根拠のところ、お前、本当に分かって書いたのか」
佐野は、しばらく黙っていた。それから、小さく答えた。
「……正直、あそこだけは、提案されたものを、そのまま使いました」
「なんで、確かめなかったんだ」
佐野は、少し俯いた。
「AIが書いたものだから、大丈夫だと思ってました」
木下は、何か言おうとして、言葉を止めた。
自分も、似たようなことをしていた。
――
木下は、その夜、自分のパソコンを開いた。
ここ最近、部下の企画書をチェックするとき、木下は自分でも、AIに要点を整理させてから目を通すようになっていた。「この企画のリスクは何か」「見落としている論点はないか」。AIが出してきた指摘に頷いて、それを自分の意見として、部下に返していた。
佐野を「成長した」と褒めていたとき、木下は本当に、佐野自身の力を評価していたのだろうか。それとも、佐野の企画書の向こうにいる、同じAIの整った言葉を、評価していただけだったのだろうか。
そして、もし木下自身のチェックも、同じAIを通していたのだとしたら――
木下と佐野のあいだで交わされていた「良い企画書」というやり取りは、一体、誰と誰のあいだで交わされていたことになるのだろう。
木下は、パソコンを閉じた。
答えは、出なかった。
翌朝、佐野から、また別の企画書が届いた。
木下は、いつものように、それをAIに読み込ませた。
木下は、少し長く画面を見つめてから、承認のボタンを押した。
この物語の裏側
この話は、上級編の中で唯一の「二重底」です。佐野だけがAIに頼っていたと思われた話が、実は木下自身も同じことをしていた、という形にひっくり返ります。
佐野を評価していたとき、木下は佐野の力を見ていたつもりでした。でも、実際に評価していたのは、AIが整えた言葉の質だったのかもしれません。しかも木下自身のチェックも、同じ整った言葉を通っていた。だとすれば、二人のあいだで交わされていた「良い仕事」というやり取りは、本当のところ、誰と誰のあいだのものだったのか。ここが、この話の一番怖いところです。
夫婦編・親子編が、AIを介した”人と人”の関係の話だったのに対し、この話は、AIを介した”評価”そのものが揺らぐ話です。評価する側とされる側、両方が同じ深淵を通していたとき、評価という行為自体の意味が、静かに書き換わっていきます。
タイトルの「繕う」は、二つの場面にかけています。取引先の前で木下がその場を取り繕った場面と、佐野の企画書が、中身のない部分を言葉で取り繕っていた場面です。取り繕うという行為は、その場をしのぐ力にも、実体を隠す力にもなる。そのどちらだったのかは、最後まで、木下にも分からないままです。