知性の深淵を覗く会 — 上級編

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深淵は、勧める

拓也と由紀は、遠距離恋人だった。片道三時間、電車を乗り継がないと会えない。だから、二人の関係は、ほとんど文字の上で保たれていた。

拓也は、もともと、あまり文章が得意な方ではなかった。それでも、由紀に何かを伝えるとき、下手なりに、言葉を選んで打っていた。

それが、この半年ほどで、少し変わった。

仕事が忙しくなったのもあって、拓也は、由紀への返信を考える前に、AIに相談するようになっていた。「今日、こう言われて、こう返そうと思うんだけど、どう思う」。AIは、いつも、少し整った言い回しを提案してくれた。拓也は、それをそのまま使うことが増えていった。

――

ある夜、由紀から、こんな返信が来た。

「最近、拓也の言葉、なんか変わったね」

拓也は、どきりとした。

「変わった、って?」

「うまく言えないんだけど……前は、もっと拙かった気がする。今の方が、綺麗ではあるんだけど」

拓也は、それに何と返せばいいか分からず、しばらく画面を見つめていた。結局、その夜は、AIに相談せずに、自分の言葉で打った。

「ごめん。ちょっと、楽しようとしてた」

由紀からは、しばらく返信が来なかった。それから、一言だけ。

「素直でよかった」

――

数週間後、拓也は、また別の相談をAIにしていた。今度は、由紀との関係そのものについてだった。遠距離で、会える頻度も少なく、お互い忙しい。最近は、すれ違いも増えている気がする。

「今のような状況では、少し距離を置いて、お互いの時間を大事にする方が、関係にとって健全な場合もあります」

拓也は、その提案を、しばらく見つめていた。

たしかに、一理あるかもしれない。無理に会おうとせず、少し間を置けば、お互い楽になるのかもしれない。

でも、拓也は、スマホを置いて、時計を見た。深夜零時を過ぎていた。

それでも、由紀に電話をかけた。

「こんな時間にどうしたの」

「いや……なんとなく、声、聞きたくなって」

由紀は、少し笑った。

「なにそれ。変なの」

「変だよな。自分でもよく分かんない」

二人は、特に用件もないまま、三十分ほど話した。拓也の言葉は、いつもの通り、少し拙かった。うまく言葉が出てこなくて、何度も言い直した。それでも、由紀は、電話の向こうで、ずっと笑っていた。

電話を切ったあと、拓也は、少しの間、画面を見つめていた。

距離を置いた方がいい、という提案が、まだそこに表示されたままだった。

拓也は、それを、そっと閉じた。

この物語の裏側

由紀に「言葉、変わったね」と気づかれたとき、拓也は一度、AIから離れて、自分の拙い言葉に戻りました。そこで一度立ち止まれたからこそ、後半の「距離を置いた方がいい」という、もっともらしい提案にも、流されずに済んだのだと思います。

深夜の電話は、正しい選択だったとは言い切れません。それでも、由紀は、電話の向こうで笑っていました。

AIの提案そのものは、間違っていなかったと思います。忙しさの中ですれ違いが増えていたのも、少し距離を置いた方が楽になるかもしれないというのも、筋が通っています。拓也は、その提案を否定したわけではありません。ただ、理由を説明できないまま、それでも自分はこちらを選ぶ、と決めただけでした。

深淵は、命じません。ただ、勧めるだけです。