足るを知ると言う事

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「足る覚えはじめて浮かぶ志 ごましお」

ちょっとイキって川柳考えてみました。

人助けや社会貢献など、いわゆる「志」というものは、

自分の安全が確保されているもしくは自身の大半の欲望に飽きてしまって

初めて出てくるモンですよね。

とまあそういう意味な訳でして

ほぼほぼ本音ベースのぶっちゃけ川柳でございます。

自己犠牲はただの自己満足

日本国民のなんとなしの感情イメージですが

「金儲け=悪」「ボランティア=善」

みたいなよくわからない感情が大半を占めております。

学力が高いなどと持ち上げられていた時代もありましたが、

「感情が邪魔して勘定ができない」バカが多い印象がもはや拭えない昨今でございます。

自分自身もこの感情を漏れなく所有していまして、

「誰に刷り込まれたのか分かりませんが、なかなか頑強にしみ込んで取れない状況」です。

前なんとかさんのように、

個人レベルで無限の補給線が確保された人なら別ですが

一般の人は「食う、家族を食わせる」という責務が何よりも優先されますので

他の方のために無償で動くと言う事は「限界」があり、総じて途中で「力尽きる」

というのはかなり自明な事でございます。

こういうのを「自己満足」という訳でございます。

一方、「儲け」を伴う慈善活動というのは「儲け=食う」が成り立つ限り

「持続可能」でございます。

こちらも自明な話で途中で「力尽きる」ることなく続ける事ができる訳です。

どちらが本当に世の中の為になるかはこれまた自明の事ですが

「儲けていらっしゃる」という単語にがっつり反応してしまう

我々悲しいさがから抜けられないのです。

頭では分かるのですが、「儲け=悪」って感情ってどうやったら消せるんでしょうね。

一説には江戸時代あたりに考案され、流布されたようですけど

根本問題として国民がここをちゃんと感情で処理できるようにならない限り

「日本国民は豊かにならんのかも」と最近痛感しています。

(抜け駆けはできますが、どこかで足を引っ張られるのは皆様ご存じの通りです。)

そう、国民は豊かになりたいと思いつつ、豊かになりそうな人の脚を引っ張り

なんとなく全体的に落ちていくというバカの所業を継続的にやっています。

飢えることで奪い合いが始まる

現代にも大勢おられますが、

偉人と分類される方々やメディアでマウント取りたそうな方々は

だいたいやりたい事(自らの欲望的なもの)を

「一通りやって飽きた!!」

と言っておられます。

飽きた上で、暇潰しを探していると、

様々な理不尽・社会問題を解決したくなるとの事

もしかしたら「歴史に名を残したい」

という結構究極な欲望を満たす動きになるようです。

対して一般人やちょっとした小金持ちレベルだとまだまだ

「食う」事に対して足りるかどうかであり、

その上の欲望については「満たされない」事の方が多い

そういうレベルの方々は「人から奪ってやろう」という

思考が働くようでございまして、筆者の僕も漏れなくこのあたりの住人でございます。

20歳の頃「御社の企業理念に共感し、社会人の一人として社会貢献を…」

などと、就職本に書いてあったことを丸暗記してべらべらと喋っていた記憶がありますが、

これを本音で言えるのは、身の安全がある程度確保できた上で

自分の欲望をある程度開放してそれらから解放されたあたり(つまりあと???年後)

の事なのだろうなと思います。

で何がいいいたいの?

再エネ・脱炭素など環境問題における日本国民が

果たさないといけない課題・役割って多いと思うのですが、

「飢えた国民に何言っても無駄」

ある程度「金」握らせないと無理じゃね?

逆に言えば

「ある程度金を握らせたら、綺麗ごと言いながら意外と善行しだすのよ。」

ということ

まあ、誰宛に言えばいいのかよくわからん、そんな話でした。

「武士は食わねど高楊枝」などと言われていたのははるか昔の話で

令和のモノノフは「武士は食えねば他の投資」

ということで食えねば、環境問題・脱炭素・反原発的なポジショントークも

そこそこにソッポ向かれる訳でございます。

このあたりはどなた様が今後設計されるのか非常に興味があるわけでございますが、

どっち向いても叩かれる今の国内情勢ではなかなかにしてなりてがないのも現実の悲しいところでしょうか。