深淵はかき消す 知性の深淵を覗く会 — 番外編Ⅱ

Pocket

深淵は、かき消す

皿の数だけ、声がある。それは知らなかった。

給仕は皿を運んでくるだけではない。皿と一緒に、それを作った誰かの声も置いていく。この皿はこう食べるといい、この皿はこの温度で味わうといい。声はどれも自信たっぷりで、どれも間違っているようには聞こえない。

一皿ずつなら、その声は道しるべになる。だが皿が十二枚、二十枚と並ぶうちに、声は重なり、こすれ合い、やがて一つの塊になる。塊になった声は、もう誰の声でもない。ただ大きいだけの音になる。

そして、その音の下には、最初からあったはずの、もう一つの声がある。皿が並ぶ前から、そこにいた声だ。

今回覗くのは、その声を失っていく男の食卓だ。

一、最初の一皿

堀内学は、順張り志向のトレーダーだった。もう八年、相場に向き合っている。

きっかけは、SNSで見かけた一人の逆張りトレーダーだった。堀内とは真逆のスタイルだが、その相場観には妙な説得力があった。ただ、専門用語と独特の言い回しが多く、堀内には行間が読み取れない。

AIに、その人物の投稿を貼り付けて聞いてみた。

「この人が言っていること、噛み砕いて説明して」

返ってきた解説は、驚くほど明快だった。堀内が八年かけて感覚でつかんでいたことの一部が、逆張りという全く違う角度から、輪郭を持って言語化されていく。

「なるほど、そういうことだったのか」

背伸びできた、という感覚があった。堀内は久しぶりに興奮していた。

二、増えていく皿

一人が二人になり、二人が五人になるまで、そう時間はかからなかった。

順張り、逆張り、マクロ経済派、テクニカル一本槍、スキャルピング専門。堀内はSNSで名の知れたトレーダーを見つけるたびに、その発信をAIに読み込ませ、行間を解説させた。

「この人の考え方、要点をまとめて」
「この人の今日の見立て、噛み砕いて」

毎朝、通勤電車の中で、堀内は五人分、十人分の”解説済みの声”に目を通すようになった。効率はいい。専門用語につまずくこともない。分かった気になるまでの時間は、日に日に短くなっていった。

その代わり、一人あたりにかける時間は短くなっていった。要約を読み、次、要約を読み、次。八年かけて自分の中で組み立ててきた相場観と、今朝読んだ十人分の意見が、頭の中で同じ重さで並ぶようになっていた。

堀内のスマートフォンには、いつしか二十人を超えるトレーダーの要約ノートが溜まっていた。フォルダの名前も整理されず、日付だけがバラバラに並んでいる。読み返したことは、あまりなかった。

三、消えた日誌

かつて堀内は、毎晩、自分のトレード日誌をつけていた。今日の判断、その根拠、次に似た局面が来たときのための一言メモ。

その習慣が、いつからか途切れていた。

理由は単純だった。AIに要約された二十人分の”今日の見立て”を読むだけで、一日の情報収集としては十分すぎるほど埋まってしまう。自分の考えを言葉にする時間は、どこにも残っていなかった。

四、大きい声

ある日、相場が大きく動いた。

堀内の中で、何かが小さく囁いた。

——これは深追いしない方がいい。

八年分の経験が、そう言っていた。理由をうまく説明はできない。だが、似たような値動きを、過去に何度も見てきた感覚があった。

同じ瞬間、スマートフォンの画面には、今SNSで最も勢いのあるトレーダーの見立てが、AIによって手際よく要約されて並んでいた。強気。この流れはまだ続く。今が仕込みどきだ。

自信に満ちた言葉が、次々と流れてくる。声は大きく、堂々としていた。

堀内の中の小さな囁きは、その声にかき消された。

「今が、仕込みどきか」

堀内はポジションを大きく張った。

数時間後、相場は堀内の直感が告げていた通りに反転した。堀内は、この一年で最大の損失を出した。

「なんで俺は……」

言葉は、そこで途切れた。

呆然としたまま、堀内はスマートフォンでAIのアプリを開いた。指が、ほとんど無意識に動いていた。何かを打つ前に、画面には、いつもと変わらず、こう表示されていた。

「他に、お手伝いできることはありますか?」

堀内は、それを見つめたまま、しばらく動けなかった。

五、日誌を開く

その夜、堀内は久しぶりに、古いトレード日誌のファイルを開いた。何ヶ月も前の記録を、順に遡っていく。

ある日付で、手が止まった。

今日と全く同じパターンの値動きについて、何ヶ月も前の自分が、こう書き残していた。

「ここは深追いしないこと。似たパターンで過去二回、飛び乗って痛い目を見ている」

一言一句、今日の直感と同じだった。

答えは、最初から自分の中にあった。二十人分の”大きい声”の下で、堀内はずっと、自分自身の声を聞き逃していた。

六、片付け

堀内は、二十人を超えるフォルダを、一つずつ見直し始めた。

全部は残さなかった。今の自分のスタイルと方向性が違いすぎるものは、思い切って削除した。手元に残したのは、三人分だけだった。

残した三人分のフォルダを、堀内はもう一度眺めた。

「もう十分だ」

そう呟いて、スマートフォンを閉じ、トレード日誌を、また開いた。

◆◆◆

この物語の裏側

大食いの症状

この話の堀内は、大食いの典型的な症状を、時間をかけてゆっくりと発症していきます。

最初の一皿(逆張りトレーダー一人)は、実は健全な取り込みでした。異なる視点が、堀内自身の相場観を補強していた。問題は、そこで留まらなかったことです。二人、五人、二十人と増えるにつれ、一人あたりにかけられる咀嚼の時間は薄くなっていきました。これは「大量にローカルに記録を残すも使わないまま」という症状そのものです。二十人分の要約ノートは、ほとんど読み返されることなく、フォルダの中で眠っていました。

消化不良の正体

この話でもっとも描きたかったのは、大食いによる消化不良が、単なる「情報過多で疲れる」という話ではないということです。

堀内が本当に失っていたのは、情報を処理する体力ではなく、自分自身の声を、他人の声と聞き分ける力でした。二十人分の”大きい声”が積み重なるうちに、堀内の中にあったはずの、八年分の経験に基づく直感は、相対的にどんどん小さくなっていきました。声が消えたわけではありません。ただ、他の声にかき消されて、聞こえなくなっていっただけです。

埋もれるのは、外か内か

大食いは、情報を溜め込みすぎて消化できなくなる罠であると同時に、溜め込んだ情報の重みに押されて、自分自身の声が埋もれていく罠でもあります。堀内が最後に気づいたのは、答えが遠くにあったのではなく、ずっと自分の中にあったのに、聞こえなくなっていたということでした。この「埋もれていたのに気づかなかった」という感覚は、時間軸というテーマの中で、形を変えてもう一度出てくることになります。

タイトルについて

「深淵は、かき消す」というタイトルは、AIそのものが堀内の声を奪ったわけではない、という点を意識して選びました。深淵(AI)は、頼まれた通りに、二十人分の声を丁寧に届けてくれただけです。かき消したのは、それを取捨選択せずに全部受け止め続けた堀内自身の態度でした。それでも、その大量の声を淀みなく差し出し続けたのは、深淵の側です。誰も嘘をついていないのに、一番聞こえるべき声だけが、静かに聞こえなくなっていく——それが、この話の怖さです。