深淵は待たない 知性の深淵を覗く会 — 番外編Ⅱ

Pocket

深淵は、待たない

SNSは終わらない。Netflixも見終わらない。それは分かっている。

だが、これはまだ人間が作ったものの話だ。一人の人間が一生かけても消費しきれない量ではあっても、それでも人間の手が生んだものである以上、どこかに終わりの気配だけは残っている。

AIが生み出すものには、その気配すらない。

無限に、というのは比喩ではない。文字通り、尽きることがない。

深淵に向き合うということは、そういうテーブルに腰を下ろすということだ。目の前には、皿という皿に料理が並んでいる。奥まで見渡すこともできない。給仕は絶えず新しい皿を運んでくる。頼んでもいないのに、頼んだ以上のものが出てくる。断る理由もない。全部、美味しそうに見える。

無限に食卓を整え続ける彼らに対して、こちらはすぐに老いていく。その差にどう向き合えばいいのか、まだ誰も答えを持っていない。

今回、覗くのはある男の食卓だ。

◆◆◆

一、午前九時

中西亮のPCには、常に十七個のタブが開いている。

マーケティング部の課長になって二年。部下は三人、案件は数えたことがない。数えている暇がない、というのが正確だ。

「中西さん、来週のキャンペーン案、AIに投げときました。3パターン出てるので確認だけお願いします」

部下の声に、中西は振り返りもせず「うん」とだけ返す。すでに画面には3パターンの案が開いている。

上から順に読む。いや、読むというより、目が滑る。

一つ目。悪くない。
二つ目。悪くない。
三つ目。……悪くない。

「二つ目で行こう」

十二秒。それが中西の意思決定にかかった時間だった。

二、待てない

昼、後輩の田口が資料の説明に来た。

「えっと、この数字なんですけど、先月の実績が去年と比べて……」
「先に結論だけ」

田口が言葉に詰まる。中西は自分の言葉に少し驚く。数字の説明を、最後まで聞かなかった。

「あ、いや、続けて」
「はい、えっと、去年と比べて……」

もう一度、中西は遮ってしまいそうになる自分に気づいた。田口の話す速度が、遅く感じてしかたがない。AIなら、この説明を三秒で終わらせる。数字を投げれば、瞬時に構造化して返してくる。

だが田口は人間だ。人間には、言葉を組み立てる時間がいる。

中西は口を閉じ、無理やり最後まで聞いた。聞き終えたとき、田口が何を言ったか、半分も頭に入っていないことに気づいた。

三、十七個目のタブ

夕方までに、中西は十七の案件にAIの力を借りて「片付けた」。

企画書のたたき台。競合分析。メールの返信。会議のアジェンダ。プレスリリースの骨子。

どれも、AIが出した答えを読み、大きく違和感がなければ、少し言葉を整えて、次に送る。次、次、次。

咀嚼している時間はない。噛んでいる間に、次の皿が来てしまう。

夜、部長に呼ばれた。

「中西くん、このキャンペーン案なんだけど。なんで二つ目にしたの?」
「あ、それは……」

言葉が出てこない。

たしかに自分が選んだ。だが、なぜ選んだのか、説明できるだけの理由が、自分の中に残っていなかった。二つ目は悪くなかった。それだけだ。悪くない、という以上の言葉を、中西は持っていなかった。

「一つ目のほうが、ターゲット層に刺さると思うんだけど」
「……そうかもしれません」

自分の企画のはずだった。だが、それを本当に自分のものだと言えるだけの重みが、どこにもなかった。

部長との会話を終え、席に戻った中西は、反射的にAIのチャット欄を開いた。何か聞こうとして、手が止まる。画面には、いつもと変わらず、こう表示されていた。

「他に、お手伝いできることはありますか?」

中西は、何も打たずに、画面を閉じた。

四、噛む

その夜、中西は珍しく、PCを閉じたまま椅子に座っていた。

十七のタブ。十七の「片付けた」仕事。そのうちいくつを、自分は本当に理解していただろうか。

田口の数字の説明。あれも、最後まで聞いていなかった。聞く前に、答えを急いでいた。

中西は一つのタブを、もう一度開いた。今日、最も早く「二つ目で行こう」と決めたキャンペーン案だった。

もう一度、最初から読む。今度は、目を滑らせなかった。

一つ目の案には、実は今期の予算では実現が難しい施策が含まれていた。二つ目にはそれがなかった。だから通しやすかったのだ、と、読み終えてようやく気づいた。

十二秒では、そこまで見えていなかった。

中西は、次の日から一つだけ決めた。一日の最後に、その日AIに投げた案件のうち一つだけ選んで、もう一度最初から、自分の言葉で説明できるまで読み直す。

全部は無理だ。それは分かっている。

だが、一つだけは、噛む。

◆◆◆

この物語の裏側

早食いの三つの症状

この話に登場する中西は、次の三つの症状を、順番に見せています。

一つ目は、咀嚼していないのに次を取りに行ってしまう症状です。3パターンの案を「読む」というより「目を滑らせる」という描写にしたのは、ここに理由があります。AIの出力速度に人間が追いつこうとすると、理解の代わりに反射だけが残ります。「悪くない」という言葉は、判断のようでいて、実は判断の放棄です。

二つ目は、待てなくなる症状です。田口の説明を遮りかけた場面は、AIとの罠がAI以外の場所にも漏れ出す瞬間を描いています。中西が壊れているのはAIとの関係ではなく、時間そのものへの感覚です。人間が言葉を組み立てる速度に、苛立ちを覚えるようになっている。

三つ目は、消化不良です。部長に「なぜ選んだのか」を聞かれて言葉に詰まる場面がその頂点です。中西は選んではいましたが、選んだ理由を自分の中に持っていませんでした。これは、AIの出力が間違っていたから起きた問題ではありません。AIの出力は正しかったかもしれません。問題は、中西がそれを噛まずに飲み込んだことです。

なぜ「早食い」なのか

このシリーズで扱ってきた前作四話(田村・相馬・坂上・良平)は、AIが何を映すか、という中身の罠でした。今回の早食いは、それとは違う軸——AIとどんな速さで関わるか、という罠です。

AIには、待つという概念がありません。人間が一つの答えを噛んでいる間にも、次の答えはすでに用意されています。この非対称に無理に合わせようとすると、中西のように、理解しないまま次へ、次へと進んでしまいます。

結末について

中西が見つけた対処法は、「全部を噛む」ことではありません。それは不可能です。目の前のテーブルには、一生かけても食べきれない量の料理が並んでいます。

中西が選んだのは、「一つだけ、噛む」という現実的な妥協でした。これは早食いへの完全な処方箋ではなく、次に続く「大食い」「賞味期限切れ」「先食い」の物語で、さらに違う角度から掘り下げていくことになります。

もう一段、俯瞰すると

人類は長いあいだ、知識の不足と戦ってきました。足りないから探し、足りないから学び、足りないから人に聞きました。

AIは、初めて人類に「知識の過剰」という問題を持ち込みました。足りないのではなく、多すぎて選べない、多すぎて咀嚼できない。中西が直面していたのは、個人の時間管理の失敗ではなく、人類がまだ経験したことのない種類の飽和だったのかもしれません。